球磨川の瀬-坂本町“下代の瀬”
“下代の瀬”は八代から球磨川沿いに219号線を南下すると、坂本町中心部に渡る「中谷橋」の下流にあります。ここは、荒瀬ダムがゲート全開する前からあった瀬で、ここより下流は要は遺跡の湛水域になります。
“下代の瀬」の意味は、「舟で八代に下る時は、第一の瀬といふ意味らしい」と「郷土読本(昭和7年下松球磨尋常小学校編)に説明されているようです。つまり、球磨川の舟運開通以前は人吉からは山越えをして、坂本に入り、この瀬のすぐ上流からを利用して八代に下っていたようです。
広い河原の右岸側(左手)に下代の瀬が見えます。手前の護岸に、「鉄奨附岩(かねつけ岩)」の一部が見えます。戦国時代に背後にある瀬高城が落城した時に城方の女性(歯に鉄奨を付けた既婚者)がここから球磨川に身を投げたといういわれがあります。
アユの良い産卵場であり、漁場となっており、季節にはアユ掛けをする人の姿がよく見られます。この日も3~4名の釣り人の姿が見えました。
河原には簡単なテントが3張りはってありました。夜間にがっくり掛けをする漁師さんの休憩用のテントです。
主流と河原を挟んだ反対側にも小さな流れがあります。水はとても澄みきって、足をつけるとこの季節冷たいけれど、気分爽快です。お弁当を持って、1日過ごせば、日々の疲れもぶっ飛びそうです。
河原からみた鉄奨附岩です。下からみると、鉄奨を付け、足を縛って身を投げたという女性たちの悲しい話も、遠い昔ではなく、自分が生きている時代の記憶であるかのごとく思わせるような雰囲気があります。「球磨川物語」(花岡伊之作著)にはこのように記述されています。
ー坂本の西十町 求麻川の左岸に瀬高と言ふ山間の一小部落がある。此部落に瀬高の城があった天正年間大友氏があ 古麓の城主相良氏を破り瀬高の城に殺到した 突然の事とて婦人は逃げる隙がない 一同死出の嗜みに 鉄奨黒々と歯に染めて 求麻川左岸に 斗立する岸頭より碧き深淵に身を躍らせて死んだ 此事実にあやかりて 由来鉄奨付け岩と呼んでいるー
碧き深淵も想像に難くなく、今なお誇れる球磨川の名勝の一つです。
球磨川の良さを改めて認識できる場所の一つです。
| 固定リンク
最近のコメント