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2010年2月27日 (土)

ダムが出来てからひどくなった水害(2)

house坂本町中津道の水害

Photo 八代市から219号線を人吉方面に走ると、荒瀬ダムを通り過ぎて6kmぐらいのところで、道路が球磨川の左岸から右岸に変わるところに鎌瀬橋があります。橋を渡ったところが中津道地区です。荒瀬ダム建設当時は30戸ほどの人家がありましたが、たまに増水しても、ここも床下浸水程度で、被害がでることはありませんでした。しかし、ダム建設後はやはり急激な水位上昇と大量の土砂堆積により甚大な被害を被るようになりました。洪水時には、荒瀬ダムのバックウォーターと瀬戸石ダムの放流によって、水位が急激に上昇するようになったと地区の人たちはいいます。

houseダムが出来ても、水はこないと説明された

ダム建設前の地元への説明会においても、ダムが建設されても満水時の満水位線より1m上を危険水位といい、そこまでしか水はこないと説明されました。ダムをつくるのに、県が嘘をつくわけはないと誰も信じて疑うことはありませんでした。

当時、川の近くに住む家はどこも石垣で土台を組み、その上に家を建てていましたが、石垣は隙間が多いため、浸水すると隙間に水が入り崩れやすくなるために、石垣の下1mぐらいは、コンクリートで固めて、水の浸入を防いでいました。P1050216s コンクリートの上まで(上記写真の赤線)が危険水位で、そこまでしか、水はこないと説明されていたのです。中津道集落の一番下にあった家は、写真の茶色線の高さに建っていました。その隣の、もう一段高いところに、Hさんの生家があり、その当時で築80年だったと言います。

昭和38年は、そのHさんの生家の軒下まで、水位が上昇したのです。

house後で分かった、ダムの計画高水位

Photo_2  現在の中津道集落を対岸から見たところです(赤線は国道219号線)。左から2番目にHさんの生家がありました(茶色の□枠)です。危険水位は石垣の下(青い線)と説明されていたのに、昭和38年は軒下まで水がきました。家財道具一切を失いました。しかし、県は「自分たちは危険水位は石垣の下と考えているので、それ以上に水がきたのなら、それは自然災害だ」という説明を繰り返すばかりでした。

S40_2 昭和40年当時の中津道集落です(茶色線は国道の高さ)。昭和38年の水害後、企業局と補償をめぐってやり取りが始まりますが、その中で分かったことがあります。ダムができた場合の計画洪水位は、写真の黄色の線の高さで設定してあったということです。つまり、洪水時にはこの高さまで水位が上昇することを前提に設計されていたのです。中津道地区の人たちが、「県にだまされた」と思うのは当然のことでした。

中津道の方たちは、最初から「ここまでは水が来ますので、移転して下さい」と説明されたのならまだ分かるが、「水は来ません」と説明されたのに、水が来て甚大な被害を被るようになったことに対して、誠意をもって対処してこなかった企業局へ憤りを感じているのです。

その後、Hさんの実家も自己資金で、一段高いところに家を移しましたが、そこも昭和57年の水害では、胸の高さまで水位が上昇しました。坂本町や球磨川沿川に甚大な被害を与えたこの昭和57年の水害を機に、道路や宅地の嵩上げ事業が県や国の事業として、本格的に始まります。

今日の天気:cloud

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