昔の球磨川・・・漁師さんの証言(1)
昔の球磨川は鮎がいっぱいいた
昔の球磨川について、流域の人は良く知っています。特に鮎の話になると、漁をしない人でもよく知っています。「鮎が本当にたくさんいた」という話を最初聞いた時は、宮崎の街育ちの私には、にわかに信じられない話ばかりでした。しかし、多くの人の話を聞くと、みんな話が一致しています。一人一人の話が違うなら、失ったものを懐かしむ気持ちが、話を大きくさせているのかもしれません。しかし、みんなが同じ話をするとなれば、信じないわけにはいきません。その共通した話とは以下のようなものです。
- 春になると、稚鮎がまるで川幅いっぱいの黒帯のようになって、川を遡上していた。
- 橋の上や舟の上からみると、澄んだ川は鮎でいっぱいで、川底は見えなかった。
- 川に石を投げると、鮎にあたった。
- 水面を棒でたたくと、鮎が数匹プカプカと浮いてきた。
- 夜川に行き、川岸で水の中にそっと手を入れると、鮎を抑えることができた。
- 子供も、アユ釣りで稼げたので、小使いをもらったことはなかった。学用品もみんな自分で買っていた。
- 鮎漁師は、半年の漁で、サラリーマンの1年分を稼いでいた。
共通したものだけですが、その他の話になると枚挙にいとまがありません。熊本県は失った球磨川の価値について、データがないので試算できないといいますが、聞き取りが立派なデータになることがあります。一つには、聞き取りや観察回数の数が多いこと、もう一つは継続性があることですが、それがきちんと記録してあれば、立派なデータであり証拠です。そういうこともしないで、「データがない」として片付けるのであれば、検証する気がないと言ってるのを同じです。
球磨川の昔について、漁師さんのお話を少しづつ紹介していきたいと思います。
塚本さんは友釣りの名人として、よく釣り雑誌にも取り上げられる球磨川の有名人です。球磨川のすぐ近くで生まれ育ちました。お父さんは、国鉄勤務の傍ら、4,5反歩程の畑作をしていましが、夜はアユ漁をしていました。昔の塚本さんは、まさに川ガキそのものだったようです。************
生家から野原を挟むと球磨川があり、塚本さんは子供のころから、その周辺の球磨川を遊び場にしていました。対岸まで泳いで戻ってくることが、子供のほこりでした。遥拝の堰を下るイカダを見つけると、船頭さんの両手がふさがったスキを狙って、イカダに誰が一番に乗り込むことが出来るかを競いあっては、怒られたそうです。喉が乾くと、球磨川の水をすくって飲みました。
小学生の塚本さんにとって、球磨川は遊び場と同時に稼ぎの場でもありました。5月~10月頃まで、学用品代になる位の金額を、鮎とさなぼり(ゴリ)、ウナギなどを売って得ていました。家庭でも、お祖父さん、お父さんとも鮎漁をしていましたが、落ち鮎の頃は、舟に足場がない程の漁獲があり、お祖母さんが天秤棒で、桑カゴに入れた鮎を売りに行く姿を見て育ちました。漁協組合員だったお父さんは、仕事を終えて、夜近所の人と投網に出かけるたびに、2、3時間で4~5kgの鮎を取ってきては、頼まれた人たちへ配り、生活の足しにするのが当然のこととなっていました。
塚本さんが鮎の友釣りを始めたのは、昭和39~40年(二十歳の頃)ですが、現在の県立南高校の前付近の球磨川で、地元名人と呼ばれる老漁師に混ざり鮎釣りをすると、一度の漁で当時の給料の1割程の収入が得られたといいます。
ここ数年は、夏の鮎漁が主体です。漁場は下流のダムの影響で、八代に友釣り場がなくなった為、今は主に球磨郡内球磨川水系で鮎がいそうな場所です。10年ぐらい前までは、春はヤマメ、冬はハエ釣りと川の恩恵に預かっていましたが、今ではヤマメの漁場もなく、漁も努力次第で、やっと生活の足しになる程度の量しか取れません。
塚本さんは、釣りインストラクター協会員や全国釣り振興会等の大きな組織に所属している立場から、全国に釣り友達がいます。鮎釣りシーズンには、遠来の客から球磨川のガイドを頼まれることも多いといいます。ここ数年は鮎の減少にアユ釣りに訪れる人もめっきり減りました。
「人間や動植物、生きとし生ける物すべてに恵みを与えるべくして、太古から受け継がれた造形物として、球磨川の豊な水量、美しさを誇りに思います。現代に生きる人間だけの財産ではありません。」と塚本さんはダム問題にも積極的に取り組んできました。球磨川で川辺川ダム反対の声が強いのは、荒瀬ダムができてからの川をよく知っていて、昔の川を取り戻して、未来に手渡したいという気持ちがみんなに強いからに他ありません。
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